1979年に三週間かけて、東京から信州を経由して京都から関西、四国、九州そして本州に戻って日本海側から再び京都奈良と回って東海から東京に戻ってくるという、ソロで野宿のツーリングを実行しました。
毎年暑い夏がくると今でもこの時、44年前のツーリングを懐かしく思い出します。
以前にも紹介した記事ですが私の思い出の「九州編」のツーリングを残しておきます。
※掲載している記事中の写真は、当時のコンパクトフィルムカメラで撮影したものをスキャンしたモノです。 今の高精細のデジカメのものと比べると荒いし色も少し変ですが当時はこれでも十分でした。 当時デジカメやスマホを持っていたらもっと写真や動画を撮っていたことでしょう。
東京からずっと下道を走り、明石までやってきてフェリーで淡路島、四国と回ってきました。
そして八幡浜からフェリーに乗って九州の臼杵に渡ってきました。
さらっと書いていましたが実はかなり大変なことになっていました。
この日、かなり風が強く海には高い波が立っていました。
前日に野宿した宇和島の神社を日が昇ってまもなく出発して、i時間ほどで八幡浜に着きました。
走っていてちょっと横風に揺すぶられるかなとは思いましたが、そこまでひどいとは思っていませんでした。
着いてすぐのフェリーに乗ったのですが、これがまあ揺れること揺れること。
デッキに出て外を眺めていたのですが、手すりにつかまっていないと立っていられないほどでした。
乗っていたのは2時間ちょっとでしたが感覚的にはもっと長かったような気がします。
私は子供の頃から遠足で乗るバスでも気分が悪くなることがたまにあったのですが、なぜか大人になってからは乗ったバスだけでなく船で酔った事は一度もありません。
バイクに乗り始めてコーナリングで傾いている事を体が覚えたので、三半規管が少しは鍛えられたのでしょうか。
九州、大分県の臼杵港に着いた頃には風もだいぶおさまって普通にフェリーから降りてきたのですが、その時聞いた話では波が高くて危険なのでこの後の便から欠航することに決まったということです。
うーん、よく無事に来られたものですね。
さて東京を出てからこれもまた生まれて初めての九州にやってきました。
といってもどこを走るかは全く決めていません。
とりあえず九州一周、それも出来れば海岸線に近いところを走ることにしました。
持ってきたのは日本全国地図一冊だけでガイドブックもありません。
地図に表記されている「おすすめの観光地」というところと何となく昔から知っている九周の有名な地名のところだけ辿っていこうという、とってもアバウトな旅です。
ちなみに四国編でもそうでしたが、私の昔のツーリングではご当地ならではの「グルメ」「郷土料理」はほとんど出てきません。
食べ物にはこだわりがなかったので、普通の定食屋さんやドライブインなどを利用していました。
今ならもうちょっとその土地ならではの料理をスマホで調べて食べていますが、当時はなんともったいないことをしたものです。
フェリーから降りた臼杵の町は曇ってこそいても雨は降っていませんでした。
しかし海岸線に沿って南下していくうちに天気は悪化してきました。
この日の宿は宮崎市の手前まで来た時に見かけた国道沿いのコインスナックでした。
私の寝袋一丁だけの野宿ソロ旅では、この24時間営業のコインスナックもよくお世話になりました。
(この日の走行:302.8km)
翌日は8月15日、終戦記念日でした。
天気は朝から雨、宮崎市内を走っている時はこんな雨の中を走りました。
宮崎といえば当時は「新婚旅行の行き先」「野球のキャンプ地」くらいの知識しかありませんでした。
地図を見ると「平和台公園」というのがあります。
終戦記念日に行く行き先としてはいいだろうと思いそこに向かいました。
この時は雨もあがり、傘を持たずに見て回る事が出来ました。
公園内にははにわもありました。
公園を出て、バイクに跨り走り始めて宮崎市を出てしばらくするとどうもバイクの挙動がおかしいようです。
すぐに路肩に止めてチェックすると後輪がパンクしていました。
今回の旅行の前、大きなエンジントラブルは無理だとしても軽微な故障、トラブルは自分で何とか人里まで自走出来るくらいには応急処置が出来るようになっていた方がいいだろうと、それなりに準備をしていました。
パンクした場合の修理方法も一応調べておきましたがまだ実際には作業はやったことがありませんでした。
路肩ではパンク修理もやりにくいし危険なので、なんとかガソリンスタンドのあるところまで騙し騙し走ってやっとの思いでたどり着きました。
スタンドのおじさんに断って隅の方の場所を借りてメインスタンドを立て、持ってきた工具を使って後輪を外してみると、なんと中のチューブの口金のところに大きな亀裂があるではないですか。
この時、タイヤを脱着する工具とパンク修理のためのパッチセットは持ってきていましたが、スペアタイヤを用意するまでは気が回っていませんでした。
持っているパンク修理キットだけでは修理は不可能で、どうしても新しいタイヤ用のチューブが必要です。
今のバイクはチューブレスのタイヤのものが主流で、パンクしてもクルマと同じようにゴム栓をねじ込めば修理完了ですが、昔のバイクや今でもスポークホイールの私のハーレー、ヘリテイジのようなバイクは、タイヤをハズしてリムから落とし、チューブを引き出して修理する必要があります。
スタンドの人に相談してみますが、当然然バイク用のしかもサイズが乗ってきたホークに合う物などあるわけがありません。
近くにバイク用品店などもないし、さらに運の悪い事に今日はさっきも書いたように8月15日のお盆です。
お店があったとしてもほとんどやっていない状況です。
途方にくれていると見かねたスタンドのおじさんがわざわざ軽トラに乗せてくれて街中を走ってくれました。
何軒か休みの店ばかりであったが、ようやく一軒だけ街の自転車屋さんのようなところで欲しかったサイズのチューブが見つかり踊り出さんばかりに喜びました。
このお店で予備の分も含めて前輪、後輪用のチューブを購入する事ができました。
スタンドのおじさんも一緒に喜んでくれました。
お礼を言って車のガソリン代を出そうとすると頑なに固辞され「困っている時はおたがいさまだから」と言ってただ笑ってわらっているだけでした。
やっぱり旅の途中で出会った人達はいい人が多いと感じた時でした。
おじさんのスタンドに戻って自分でチューブ交換をして無事、バイクは走れるようになりました。
何度も何度もおじさんやお店の方にお礼を言って大きく手を振りながらスタンドを出発しました。
パンクの直ったバイクでえびの高原から霧島へ向かいます。
鹿児島ではこの場所くらいは私でも観光地として知っています。
九州鹿児島と言えばなんと言っても桜島でしょう。
霧島市街から見た桜島は雨で霞んでいます。
道ばたに停まってバイクにまたがったままカメラを向け写真を撮っています。
わざとバックミラーに自分が写り込むような角度を選んでいますね。
オレンジのウェアは今の「レインウェア」というより「ラーメン合羽」と言った方が似合っています。
今の人はこの言葉は知らないかもしれませんね。
ラーメン屋さんの出前のスーパーカブの人が、目立つように上下オレンジ色の合羽を着ていたのでそう呼ばれていました。
私の被っているヘルメットは今と同じようにジェットヘルです。
あの事は写真にあるように、白い小さなヒサシを付けているのが普通で、またジェットヘルにはシールドがあまり付いていなくてそのかわりにゴーグルをするのが当たり前でした。
また、当時はまだタバコを吸っていたので指に挟みながらシャッター押してますね。
この一枚の写真だけでも、当時のライダーのいろんな様子が懐かしく思い返されます。
どうせなら桜島へ行こうと思い、鹿児島湾を回って行くのですが雨は強くなる一方で道路は川のように水があふれてきています。
※ 参考までに気象庁のサイトでは、過去の日本各地の気象状況を検索して調べる事ができます。
1979年8月15日の鹿児島の状況です。
やはり大雨になっていましたね。
さすがにこの雨の中、屋根があるところでも湿っぽいのは嫌なので野宿をあきらめ、ユースホステルに泊まることにします。
電話ボックスにあった電話帳で探して今晩泊まれるか確認したところOKとの返事をいただきほっと一安心。
今のようにスマホがあればもっと簡単に検索して予約確認出来たでしょうね。
当時はライハ、ライダーハウスなんてものはなかったので安く泊まろうとすると民宿かYHを探すしかなかったと思います。
実は、この時がYH、ユースホステルも初めての経験でした。
システムとしては会員だけが泊まれるYHと会員でなくても泊まれるYHがあるというのはバイク雑誌に載っていたツーリングレポートで読んで何となく知っていました。
ここ、桜島ユースホステルは会員でなくてもOKのところだったのが幸いでした。。
YHは基本的には毛布だけは持参が原則ですが、当然野宿の私は持っていませんので、そんな人は有料で毛布を借りて泊まりました。
遅く入ったので夕食は無理でしたので、外に出て教えてもらったお店まで行って簡単な食事を取ることができました。
YHは基本的に複数人での相部屋、原則男女別で今はわかりませんが当時はYHによっては夫婦でも男女別の部屋になったそうです。
夜はミーティングがあって自己紹介、でもどんな事をしたかほとんど覚えていません。
その後はパンク修理と凄い雨で疲れていたので早めに休んでしまいました。
(この日の走行:182.5km)
翌朝、起きてみると昨日の荒れた天候がウソのような快晴。
やっと泊まった桜島YHの写真を撮ることが出来ました。
※ これも参考までに今見られるこのYHのサイトに掲載されている写真ですが、当時と同じものです。
こうして今の様子を知る事が出来るのもネット検索のおかげですね。
桜島から見た鹿児島の町です。
昨日はよく見えませんでしたが、これが白煙を上げる桜島南岳です。
今日の最初の目的地は、九州最南端の佐多岬です。
ライダーはとかく「先っぽの岬」を目指すのが好きな人種ですね。
鹿児島湾沿いの海岸線をひたすら南下するしていきます。
すると突然後ろからパトカーがやってくるではないですか。
別に制限速度をオーバーしている訳ではないですが、路肩によって止まっていると警察官の方が二人やってきて、私のバイクのナンバーを見てから声をかけてきました。
当時の私は東京都内23区内に住んでいましたが、バイクのナンバープレートは「練馬」でした。
東京でも「品川」ナンバーなら地方でも知れていたかもしれませんが、「練馬」は少し認知度が低かったのでしょうか。
「君は○△×■▽★◎?」
すみません! 言葉が通じません!
困った顔をしていると何度か声を掛けられたのですが、やはり「×■▽★△×■」
警察官の方もあきらめたような顔をして、それでもなんとか聞き取れたのが「気をつけて◎★□」でした。
正直、前の年に行った東北、青森でも言葉の壁はありましたがココよりはまだわかりました。
でも鹿児島の最南端では無理だった!
今ならスマホの多言語翻訳ソフトで、、、って鹿児島弁用もあるのかな?
手を振る警察官に見送られて佐多岬へ急ぎます(もちろん制限速度内で)
そして佐多岬、九州最南端を制覇したぞ!(沖縄はのぞく)
九州最南端制覇に満足した後は、鹿児島湾をショートカットするように指宿までフェリーに乗ってしまいます。
さすがに鹿児島湾をグルッと回っていては効率が悪いですね。
フェリーの上から見た桜島です。
指宿からは北上していきますが、途中立ち寄ったのが鹿児島市の「西鹿児島駅」。
ここがその後に九州新幹線の終着駅、「鹿児島中央駅」になるなんて、当時は思いも寄りませんでした。
※ 下の写真は今年の5月に鹿児島に出張で行った際に、昔の写真をタブレットで映しながら今の駅と比べてみたものです。
鹿児島本線に沿って北上し、西鹿児島駅あたりから今夜の野宿する場所を探していきます。
「折口」という無人駅を見つけ、ここで寝ることにしました。
無人駅の場合、待合室のベンチに寝袋を敷いて寝るのですが、そのすぐそばまでバイクを持ってきておけるので割と安心していられます。
もちろん始発電車が来る前に起きて出発して迷惑を掛けないようにしています。
下の写真は翌朝の様子です。
※ ここの駅も最近ネットで見つけた写真を貼ってきます。ずいぶんと変わったようですね。
ところでこの日の夜、寝袋を広げて休む準備をしているとこの折口の無人駅に地元のおじさんが近づいてきた。
「ココで寝泊まりされては困る!」とかなにか注意されるのかと身構えていると、むっつりした顔で「どこから来た?何してる?」と聞いてくました。
そう言われても最初に思った事は、「よかった!この人は言葉が通じる!」
「東京からバイクで来て野宿の旅をしています。 今晩はこの駅で泊まらせてもらうつもりです」と言うと、
「それならウチに来い。寝るとこも食事もある」と言ってくれました。
ちょっとびっくり、でも凄くありがたい申し出でしたが、当時の私はまだ他人の家にズカズカ上がりこんで泊めてもらうほどの度胸はなかったのでお礼を言って辞退してしまいました。
おじさんはしきりにすすめてくれましたが、しまいに「まあ気が向いたらおいで」と言って帰って行かれました。
今だったらホイホイ喜んでズカズカ上がり込んで食事に甘えてしまい、いっぱいお話したかったですね。
そうできなかったこれもこの旅の残念な思い出です。
でもやはり旅をしていると人様の親切がホントに実感出来てうれしいですね!
(この日の走行:319.4km)
翌日はほぼ移動日でした。
折口から出水郡を通り、蔵之元から牛深へのフェリーに乗りました。
一度フェリーに乗ってから必要もないのにフェリーに乗りたがっているようです。
なんかフェリーづいていますね。
ここから天草五橋へ向かいました。
小さな島が点在している中を橋が通っていのが珍しかったです。
その後は有明から熊本さらには玉名と回りました。
夕方、日が傾きはじめて薄暗くなる前に、今晩の宿のメドをつけておこないとっても心細いのが野宿旅です。
これは佐賀の南のところで少し暗くなり始めています。
この上下の写真で、キャリアに積んだ荷物をモスグリーンのカバーで覆っているのに気づきましたか。
実はコレ、バイクのディーカバーなんです。
着替えの入ったバッグや寝袋が雨に濡れないように、厚手の防水にナッテイルボディカバーでくるんでいるんです。
そしてもう一つ、このボディカバーの使い道があります。
公園や神社など、屋外の屋根のないところで野宿するとき、テントは持っていかなかったのですがこのボディカバーとひもで、バイクや木立にタープのようにしてその下で寝ていました。
結局この日は有明湾をほぼ一周して、長崎本線の備前飯田駅に泊まることになりました。
ここでちょっと、昔の記事にも書いた私の野宿のスタイルを転記して紹介します。
私がバイクで野宿する場所は、
・無人駅
・大きな駅のロータリー
・街道沿いの24時間やっている無料のコインスナックのベンチ
・公園や工場の入り口
・神社やお寺の境内
などが多かったです。
野宿していて困るのは「人」と「動物」。
「人」は、例えば大きな駅では駅員や守衛さんから注意される事もあるし、街道沿いのコインスナックでは夜中に暴走族が溜まりにくる事もあります。
まあ暴走族も同じライダー。「どこから来たんや!」「東京だ!」という会話で結構話がはずんでしまう事も結構あって缶コーヒーをごちそうになった事もあります。
無人駅に泊っていると先ほどのように地元のおじさんが「うちに泊っていけや!」なんて言ってくださる事もある。
夜中に寝ていてなんとなく人の気配で目を覚ますと浮浪者がこっちをのぞき込んでいた時はかなりびびった。
「動物」で困るのが野良犬です。
特に雨の日に屋根付きのところで野宿していると犬が一緒に雨宿りにやってくる。
そして夏のツーリングでやっかいなのが「蚊」。
携帯用の蚊取り線香を使っていたが、風下で寝ていると喉が痛いし風上だと効かない。
虫刺されのムヒはすぐになくなってしまう。
当時は液体のものはなくチューブ入りの軟膏でした。
野宿する話に戻ると、
夕方4時頃からそろそろその日の宿にふさわしい場所を物色し、適当な場所があればそのままその日の走行は終了となる。
一旦ここ、と決めた後でもやはり不都合があって場所を変えることもある。
日が暮れて暗くなっても泊る場所が決まらないと不安になる。
それが「私流、バイクでの野宿旅」スタイルでした。
(この日の走行:328.7km)
東京を出発してからツーリング、15日目 1979年8月18日(土)。
この日が九州を回る一応最終日です。
今日は諫早市を通過し、最大の観光地、長崎へ向かいます。
鹿児島での大雨以来、合羽の出番もなく快調に走れるのがなによりうれしいです。
長崎では少しだけ一般的な観光地を回ることにしました。
オランダ坂、
グラバー園、
写っている私のポーズがみんな同じだぁ!というツッコミは置いておいて。。
写真に写っている観光客の女性の方も、時代を感じさせるファッションですね。
十六番館、
そしてめがね橋。
この写真は1982年(昭和57年)の長崎大水害で壊れる前のもの。
長崎市内観光の途中からは、浜松からツーリングでGL400で来ていたシバタ君とずっと一緒に回りました。
それでポーズを取った写真が多かった訳です。
これは平和記念公園。
一緒に回る人がいるのも楽しいし、ついつい写真が多くなってしまいました。
「長崎来たからには本場ちゃんぽんが食べたい」という彼のリクエストで、二人で長崎ちゃんぽんのお店に入りました。
この時の長崎ちゃんぽんが私の初ちゃんぽんであり、実はこの信州・関西・四国・九州ツーリングで唯一食べたご当地グルメだったのは、恥ずかしくてとてもブログには書けません。。。ははは
市内観光が一通りすんだところで彼に別れを告げ、佐世保を通って一気に福岡まで行きました。
途中、絵はがきを出すために立ち寄った茂木の郵便局。
虹の松原も観光地ということ走り抜けてきました。
今日寝る場所は、ホンダSF工場(HISCO新宮)前のコンクリートの上でした。
ホンダのバイクに乗っているから、ちょっと軒先をお借りしてしまいました。
(この日の走行:310.2km)
九州に入って6日目。
関門トンネルを通って本州に戻る日が来ました。
なんとなく九州を去ると、この旅も後半になってきたという感じがしてきます。
いよいよ今日で九州ともお別れ、これから本州に戻って東京を目指す。
そういえばもう曜日の感覚はまったくなくなっています。
下の写真、変でしょう!
実は昨日の晩泊まったホンダSFと関門トンネルの入口が多重露光してしまったのです。
当時の銀塩フィルムでは、最後のところでたまにこうなる事がありましたよね。
失敗写真ですがこれしか記録がないのであえて載せさせてもらいます。
北九州の関門トンネルを通ると、海底トンネルなので昔から冗談でよく言われるように(ホントに昔の事だが)「海の中の様子が見えるのかな?」
な、訳はありません。
ただの暗いトンネルを通り抜けるとそこはもう本州。
もっと感慨深いものかと思っていたけど、思ったより普通だったというのが正直な感想です。
以上で44年前、1979年に私が行ったツーリングの「九州編」の終了です。
長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
ずいぶん昔の出来事ですが、あの頃のツーリングはこんなだったというのを少しは感じていただけたでしょうか。
また機会があればほかの地域のツーリングも書いてみたいですね。
えっ、「長すぎて読むのが大変だからもういい!」
まあ、そう言わずにおつきあいくださいね。
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