ホンダのバイクで脈々と受け継がれている名称の「CB」。
その名前の由来は所説あって、「Motor Cycle」と「CLUB MAN RACE」から取ったという説やC92の仕様がCA92だったので次期モデルはCBにしたという説、ほかにも「クリエイティブ・ベンチマーク」という説もあるようです。
いずれにしろホンダのバイクのイメージたるCBを名乗る最小モデルが500cc原付のCB50です。
その「ホンダベンリイCB50」が初めて世に出たのは昭和46、1971年6月1日のことでした。
当時の原付といえば2サイクルが主流で、CB50は新設計の4サイクルOHC直立エンジンを搭載して5段ミッション、7リットルの容量を持つタンクからシートにかけての流れうようなラインは、いかにもバイクというスタイルでした。
私がはじめてバイクに乗ったのは今から43年前の1978年です。
当時20歳だった私は自転車を買おうかと思っていましたが、漕いでいくのは大変かなと思いエンジンのついている二輪車を買うことにしました。 一番簡単に免許が取れるのが原動機付自転車だったので、本屋で原付免許取得の本を一冊買って丸暗記して試験場で受けてきました。
めでたく免許は取れたので買うバイクを選んだのですが、なんとなく「バイク=ホンダ」というイメージがあり、色は白バイから想定して白にしました。
今は原付というえばほとんどスクーターしかないような状況ですが、当時はギア付きで大きなバイクと同じようなスタイルのモデルが各メーカーから出ていました。
その中で選んだのがホンダのCB-50でした。
原付免許は取ったもののバイクなど一度も乗ったことはなく知り合いのバイク屋から自宅まで、クルマがビュンビュン走る都内の道をギアチェンジなる動作をしながら帰ってくるなど、おそろしくて出来そうにありませんでした。
ちょっと情けないですがバイク屋さんに頼んで自宅までCB50を軽トラで運んでもらいました。 しばらくは自宅の周りだけをウロウロしてクラッチとギア操作に慣れる練習をしていました。
当時のCB50のカタログがこちらです。
表紙のコピーは「発見する小さな旅へ誘う青春の足。CB50JX-1」とありました。
このカタログには初代にああった「ベンリー」の名前は出てきていませんが、その次のモデルのカタログ(上の写真では黒いCB50)には「BENLY」としっかり書かれていました。
最初は近所の買い物に出かける時や、昔からの趣味だった電子パーツなどを買いに秋葉原に行くのに使っていましたが、このカタログにあった「青春の旅」という言葉がなんとなく気になってきました。
それまで一人旅とかはしたことがなかったし、キャンプといえば小学生の頃に父親とその友人に連れられて1、2度やったことがあるだけでした(当時のテントは黄色い三角テントでしたね)
そのうち「旅」とまではいかないまでも、なんとなく「遠乗り」今でいうツーリングに出るようになり、奥多摩有料道路には月に数回は走りに行っていました。
いまでこそあそこは無料の周遊道路になっていますが当時は料金を払っての有料道路でした。
納車された際にはリアキャリアと左側のミラーだけをオプションで注文してありました。
ミラーは右側だけが標準装備で左側にはついていませんでしたが、今はどうなんでしょう。
早い時期にリアの左右には、当時バイク用品のメッカだった上野のバイク街に行ってハードケースを買ってきて自分で取りつけをしました。
奥多摩に行った時の写真ですが小河内ダムはすでに出来ていましたが1978年当時、管理事務所の一部はまだ工事をやっていました。
現在の同じ場所の写真です。
乗ってるバイクの排気量は30倍以上になりましたね。
奥多摩に行くといつもこの駐車場で休憩してダムを眺めていました。
学生だったので走りに行くのは主に日曜日でしたので週末の奥多摩有料道路はバイクやクルマがいっぱい来ていました。
軽いバイクだったので砂利道や未舗装路などにもどんどん入って行け、行動範囲が広がりました。
ヘッドライトケースの上にちょこんと乗っている白いボールはコンパス(方位磁石)です。 この頃はGPSナビなんてものはありませんから、この磁石で東西南北を知り地図を頼りに走ったものです。
その地図をすぐに見られるように、そしてカメラや財布などの貴重品を目の届くところに置いておくためにタンクの上に乗せる「コロナのタンクバッグ」は必須アイテムでした。 これのお陰でどこかに行った時にもちょっとバイクを停めてすぐに地図を取り出して確認することが出来るようになりました。
ちなみにタンクに留めている黒いゴムベルト、当時はタイヤをカットしたものが使われていたようです。
ツーリングに出かける時の必需品、フィルム式のポケットカメラですがまだこの頃はたまに白黒フィルムも使っていました。 時代ですね。
この写真ではミラーが純正の丸形メッキのものから、当時流行っていたナポレオン製の角型のものに交換していました。 コンパスも白いものから黒いタイプに変更して、有料道路で料金を払う時に小銭がさっと取り出せるようにコインホルダーを付けていました。
ホルダーの下はクリップになっていて通行券などのチケットがはさめるようになっていました。
このCB50はとにかく燃費が最高によかったです。 どんなに元気に走ってもリッター60km/lを下回ったことはありませんでした。 8.5リッターのタンク容量を生かして無給油で500キロ近く走れました。
そして1978年7月、バイクに乗り始めたのが春4月でしたがその3か月後生まれてはじめて野宿での一人旅に旅立ちました。
一人旅も野宿旅もまったくの初めてです。
行先は父が単身赴任していた長野を経由して、大学の友人達が合宿している斑尾に合流、それから新潟で日本海に出てそのまま海岸線を北上、青森まで行ったら今度は太平洋岸を南下して東京まで帰ってくるという、当時の私には壮大な計画でした。
荷物はリア左右のハードケースとタンクバック、それに新しく買った寝袋と大きなワンショルダーバッグ、寝袋とバッグは雨に濡れても大丈夫なようにバイクカバーにくるんでキャリアに固定しました。
行きは父親の運転する自動車に先導してもらい長野まで行きそこで一泊したあと、翌日に斑尾高原の友人達と合流しました。
この写真は飯山駅で友人が撮ってくれたものです。 当時は原付はノーヘルでもOKだったので駅の中を走っていました。 半袖、手袋なしは今からは考えられないほど軽装ですね。
友人達と別れた後は新潟のお墓参りをしてから秋田まで行きました。
これは秋田駅のロータリーで野宿した写真で、写っているライダーや自転車の旅行者、リュックを背負った初対面の方々と駅前の居酒屋で前の夜に飲んだ翌朝です。
さらにコンパスと全国地図だけを頼りに北を目指し、とうとう青森駅まで50ccの原付でやってきました。 ここではリンゴを食べて青森を実感していました。
この時、一緒に駅で野宿したライダーから「一緒に北海道に行ってみないか」と誘われたのですが、残念ながら少し喉がヘンだったので断ってしまいました。
今にして思えば43年前の1978年のこの時に北海道を走っていれば、今と違う北海道ツーリングが出来たものだろうと残念です。
当時の北海道ではまだまだ未舗装路や未開通の道が多く、それでもこのバイクなら怖いもの知らずで走って行けたと思います。
これは友人のオレンジ色のCB50と一緒に江の島に行った時の写真です。
こうして、自転車代わりの「近所への足」というつもりで買った原付が、43年経った今でも乗り続けている私のバイクライフの原点となりました。
そのCB50ですが翌年に自動車の免許を取ったあとにさらに中型自動二輪免許を取得して、同じくホンダのHAWKへと乗り換えていくことになったのです。
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