先週、出張で四国、愛媛県の松山に行ってきました。
今回が生まれてから二回目の四国入りになりました。
この前行ったのはなんと39年前、昭和54年1979年の夏でした。
東京から長野を経由して京都・大阪・神戸と走ってから四国に入り、その後九州を一周して再び本州に戻り、山口、広島と走ってから日本海側を通って再び京都へ、その後静岡、神奈川と回ってから東京に戻るという、三週間、野宿ツーリング、総費用5万円の西日本一周ツーリングでした。
前の年に原付で東日本から東北一周したのと合わせて、北海道と沖縄以外の日本一周ツーリングの一環でした。
このツーリングに関しては以前にも少しだけ簡単に書いた事がありましたが、今回初めて載せる写真もあって少し長くなりますがその四国ツーリングについて書いてたいと思います。
前の年に原付に乗り始め、その年の12月に中型二輪免許を取得、乗っていたバイクはホンダのホークでした。
「やかんタンク」「座布団クッション」と揶揄されることもありました(私のホークは後期型なので角タンクでした)が、その分長時間ツーリングには乗りやすいバイクでした。
テントは無し! タンデムシートの振り分けバッグには工具やスペアパーツ、キャリアに寝袋と着替えだけ乗っけての野宿旅です。
荷物の上に載せた赤い寝袋が、ほかのライダーに「私は泊まりのツーリングだぞ!」とアピールしていました。
ゴムベルトで留めているコロナのタンクバッグやリアの泥よけが当時のツーリングバイクらしさを醸し出していますね。
晴れていれば神社や公園などで星空の下で、また無人駅や大きな駅(青森、秋田、京都など)や街道沿いの24時間コインスナックなどで寝袋に潜り込んで眠りについていました。
四国へは、京都、大阪と走ってきて神戸でフェリーに乗るつもりだったのに通り過ぎてしまったので明石のフェリー乗り場から淡路島に渡りました。
この時が生まれて初めてのフェリーだったので、「バイクで船に乗る」「鉄板の上を渡る」というので非常に緊張しましたが、乗ってしまえば「なんだこんなものか」と、それ以降何度もフェリーを利用するようになりました。
初めて上陸した淡路島。
福良の海岸。
食事も観光もせずに、バイクでびゅーんと走ればすぐ端っこまで来てしまう小さな島。
小学校で習った時には大きな島だと思っていましたが、バイクで走ると「日本はけっこう自分で全部回れるぞ!」と感じるようになりました。
ふたたびフェリーに乗って今度は初めての四国、徳島です。
走っているクルマはみんなドアミラーでなくフェンダーミラーでした。
徳島のフェリー港に着いたのは夕闇もすでに暗く暮れかかった時刻でした。
この時フェリーから降りたバイクは三台。
ホンダCB750KとSR400、そして私のホークです。
もう日も暮れて暗くなってきたので野宿する場所を探すのも大変そうでした。
それに一緒になった二人のライダー、名古屋のCB750Kさんと大阪のSR400さんと一緒にどこかに泊まろうという事になりました。
しかしちょうどその日は徳島県最大イベント「阿波踊り」の真っ最中の日でした。
当然こんな日のこんな時間に空いている宿はなく、途方にくれるライダー三人。
「こんな時は地元のタクシーの運転手に聞くのが一番。 どこか空いている宿はないか、それに交渉までお願いするのがいいだろう」という事になって港に停まっていたタクシーにお願いします。
何軒か電話してくれるもほとんど全滅状態。
そんな中ようやく一軒だけ「部屋は空いてないけど困っているようだから布団部屋でよければ泊まらせてあげるよ」と言ってくれた民宿が見つかりました。
小躍りした私たちはタクシーの後にバイク三台繋がって隣の小松島港の民宿「みはらし」さんに泊まることが出来ました。
当然夕食など用意してもらえないので、ライダー三人でその辺の定食屋に繰り出し、はじめてあったばかりの人間ですが、そこは三人とも「バイクでの旅好き」という共通の話題で夜がふけるまで盛り上がっていました。
結局用意してくれていた布団部屋にもぐり込んだのもかなり夜が更けてからだったような記憶が、、、あまりありません(笑;
翌朝、それぞれ向かう方向がばらばらの三人、三台。
一緒に写真を撮ってお互いの安全を願いながら手を振って走り去っていきました。
当時のツーリングバイクには、今のようなハードのバニアケースを乗せている人はほとんどいなくてバッグに荷物を積んでいました。
そのかわりコロナのタンクバッグは定番でしたね。
私は特に走るルートは決めていませんでしたが、せっかく海に囲まれた四国に来たので出来るだけ海岸線に沿ってそれぞれ突端の岬を回ることにしました。
徳島から左手に海を眺めて半時計回りに走ります。
室戸岬へ向かう国道55号、「コント55号」が流行っていたのでこの標識がうれしくなって撮影したのかな。
1970年代当時のツーリングは便利さが今とはだいぶ違います。
カーナビなんてものは当然ある訳ないので、頼りになるのは全国版の日本地図とクルマ用のコンパスだけ、それに加えて重要なのが「野生の勘」。
これで「徳島から南の方に行けば高知県」ていう具合に走っていきます。
当時はタンクの上のコロナのツーリングバッグはお約束の必需品で、この背中にある透明ポケットの中に地図を入れて信号待ちで停まるたびに道路標識や案内板を頼りに現在位置と行き先をチェックしていました。
天気予報もスマホで雨雲レーダーをチェック、という訳にはいかず、雲の形や流れかた、肌に感じる湿度で予報していました。
ここは途中で休憩したどこかの国民休暇村です。
外車のスポーツカーが珍しかったんでしょう。
今回の「四国編」では32枚の写真を掲載していますが、撮影好きな私なのでこれでもかなり撮ったほうです。
今のようにデジカメがあったらたぶんこれの10倍以上撮影していたことでしょう。
カメラも銀塩フィルムですから、フィルム代・現像代・焼き増し代なども高くて、デジカメのように「いいやとりあえず撮っとけ!」的にいっぱいの写真を撮ることは出来ませんでした。
「室戸岬」には無事に到着しました。
御厨人窟に続く弘法大師修行之処
「おさご」という絶世の美女にまつわる伝説のある「ビシャゴ岩」にて。
バイクから離れて観光するときは貴重品の入ったタンクバッグを肩に掛けていくのも当時の定番です。
そして室戸岬の標識の前でバイクと記念撮影。
その後はふたたび海岸線に沿って走りやっと高知市街に到着しました。
室戸岬から高知市街へは大きな国道に沿っていけばいいので楽勝でした。
宣伝が描かれた「とでん」(たぶん当時は今と違ってシールでのラッピング装飾じゃなかったのかも)に出会いました。
東京の「都電」ではないのですが、ここ高知県では土佐電鉄の電車なので略して「土電(とでん)」、あるいは「土佐電」と呼ばれていたそうです。
高知市から足摺岬までは海沿いの大きな国道はないようですが、なんとかたどり着くことが出来ました。
その後はどこをどう走ったものか、記録が残っていません。
こういう時、今みたいにGPSロガーがあれば現在位置やルートが記録に残せるので便利なのですが、そうもいきません。
町ともいえないような小さな集落のようないくつかを過ぎた頃にはとっぷり日も暮れてきました。
段々その集落の明かりすらなくなり、あたりはバイクのヘッドライトが照らすぼんやりした丸い輪っかのところだけがぼぉーと見えています。
どれくらい走ったでしょうか、前方先の方の小高い丘の上に明かりが見えました。
「とりあえずそこまでいけば野宿出来る!」そう思って山道をくねくねと登っていきました。
だんだん明かりが近づいてきましたが一つだけしか見つかりません。
それでもようやくたどり着いた先には一軒の建物がありました。
でも、それは無人の電波の中継所だったのです。
当然誰もいません。
いくら無人の場所だからといって、こんな山の中で野宿するのはさすがに私も怖すぎます。
来た道を引き返して、とにかく人間の住んでいるところ、人肌のあるところへ向かおうと必死です。
そしてどうにか人里に降りてきて見つけた町の中、野宿出来そうな場所ならどこでもいいと思い、広々とした場所で野宿しました。
この時から私にとって四国の印象は「山深い自然にあふれた島」というものに固まってしまいました。
今になって思うのはこの日は夕食に何か食べたかどうかまったく覚えていないという事です。
翌朝、明るくなって起きて周囲を見渡してみると、どうやらそこは宇和島かどこかの神社のようでした。
この段階では地図で見ても現在地を把握する事ができません。
そこで四国内のツーリングはここまでにする事にして九州行きを目指しました。
八幡浜で見つけたフェリー乗り場で四国から九州の臼杵に渡り、この後は九州ツーリングとなりました。
そして無事に九州に上陸出来ました。
以上が私が39年前に行った四国の思い出です。
阿波踊りも見ず、観光らしい事もしなかったのですが、それでも「四国」という地を体験したつもりになっていました。
今だったら高知や四万十川、それに松山などまだまだみどころがたくさん詰まった四国を堪能出来たと思います。
今回、40年近く前に原付と中型バイクで青森から鹿児島まで野宿ツーリングをした際の「四国編」を書いてみました。
今後、「九州編」「西日本編」「東北、原付編」などを書くかどうかは未定です。
今の旅好き、ツーリング好きの私の原点といってもいい懐かしく、そして貴重な思い出です。
コメント
postpapa さんへ、
見知らぬ土地に予備知識もなしにふらっと立ち寄ってみる。
コンパスさえあればそれでいい。
北に行けば北海道、西に行けば大阪、南に行けば九州。。。
バイクの野宿旅はそんな感じで流れていきます。
コロナのタンクバッグ、
>バイクを離れる時はベースを残して4個の爪を外して持って歩いたもんですね。
>中のものが全部下に溜まっちゃってね(笑)
そうそう、そうでしたね。
最初に買ったのはモスグリーンの帆布製で、ビニールカバーが付いていました。
今は復刻板が販売されていますが、
当時ものをまだお持ちとは恐れ入ります。
http://corona.ocnk.net/
見た事も無い全く知らない土地に初めて行く。
情報なんて自分の中には殆ど無く、何となくや行き当たりばったりが珍しくも無く(笑)
タンクバックは当時はコロナが1番・・って言うか他にあったのかなぁ・・・
バイクを離れる時はベースを残して4個の爪を外して持って歩いたもんですね。
中のものが全部下に溜まっちゃってね(笑)
37年くらい前に買ったコロナタンクバッグ・・まだ押し入れに入ってます。
どこも壊れて無くて、使わないけれど取っておきたい思い出のバッグです。
wakumasa さんへ、
気に入っていただけましたか?
えっ、クルマの方が良かった!?
なるほど時代を感じさせるボディラインですね。
ホークⅡが教習車だったんですね。
あれは誰でも乗りやすいバイクです。
私はCB350Tで中型二輪を取りました。
ホント、あの大らかな時代でツーリングしたいです!
エガッキー さんへ、
私にとっては大切な青春の旅の思い出、
総出演です! 笑;
>ちょっぴりセピアっぽい色がまた写真を素敵にさせていますよね~!!
これでもかなり修正しているんですが、
あまりやり過ぎちゃうと、
その「時代」を再現出来なくなりますね。
バイク、最後の最後、自宅に辿り着いた時はドロドロでした。
>若かりし頃~今でいうカッコ可愛い感じ♪
えー、照れますなぁ!
SR400はこのツーリングの前の年、1978年に初代が発売されました。
こんにちは~♪
懐かしいお写真を拝見させていただきました♪
ちょっぴりセピアっぽい色がまた写真を素敵にさせていますよね~!!
今も昔もバイクはピカピカですね♪
メカ好きおじさんの若かりし頃~今でいうカッコ可愛い感じ♪
写真の笑顔、今も昔もそのままって感じです♪
SRって全然型が変わってないんですね~
非常に興味深い記事、写真です!
写真に写っているクルマが懐かしいものばかり。
フロンテ360、コロナマークⅡ、ダットサン・バン等々・・・
ホンダ・ホークも懐かしいです。私の教習車はホークⅡでした。
路面電車の走る街並み。
この時代をオートバイでツーリングしてみたいです。
isaboten さんへ、
おはようございます。
写真だけは(当時としては)いっぱい撮りましたが、
走ったルートなどだいぶ忘れてしまっています。
透明窓付きタンクバッグお使いだったと言うことは世代は。ムニムニ。。?
東北、関西、四国、九州ツーリングでは高速は一切使わなかったですね。
私の場合は、原付で東北、気仙沼から14時間掛けて
東京まで帰ってきた時に、おしりがあせもになったのが苦労話しです。
九州編も書いちゃおうかな。
メカ好きアン さん、おはよぅございます( ´ ▽ ` )ノ
素敵な思い出 よく覚えてはることに さすが。。って 感じです(*≧∀≦*)
私も 若い頃に行ったツーリングは タンクバッグの 透明な ところに 地図入れてました (笑)
そんなに 遠いところに行ったことはないですが それでも 今みたいに 高速かどんどんひかれてたわけじゃないんで 渋滞の知らない道を走りながら クラッチを握る手が痺れ不安に押しつぶされそぉになりましたね (⌒-⌒; )
たくさんの 写真がしっかり 整理されてるのが羨ましい。。。
私の当時写真 クリアボックスにドシャって 入ってます ( ̄▽ ̄;)
ジン さんへ、
コメントありがとうございます。
私の青春時代のそしてバイク旅のたいせつな思い出です。
当時、三脚は持っていかなかったのですが、
どこかに置いてセルフタイマーで撮ったり
ほかの方にシャッターを押してもらったのだと思います。
今は日本でもこういう野宿旅をするのが
安全とはいえなくなってしまったようです。
でも自由な時間があればまたやってみたいですね。
その時はハーレーよりもっと身軽なバイクがいいかな。
貴重な写真ばかりですね。
どのセルフショットもいい顔されてます^^
今のツーリングとは大きく違い
ちょっとした冒険みたいなものですもんね。
現在だとどうしてもネットの力に頼ってしまいますものね。
この時代に同じことやってみたかったという気持ちになりました^^